top of page
ウエストミンスター内のメルリボーン地区を南北に走るベイカー街は様々な店が並んでおり、来客をあちらこちらへ目移りさせる楽しさを持ち合わせている。
しとしとと雨が降っているにも関わらず、たくさんの人で賑わっているその様子は、ほんの半年前までアフガンの地で戦火に蠢く地平線を眺めていた日々を、もうずっと昔のことのように思わせた。 馬車から流れ見るこの景色も、ここへ来た当初は少し窮屈そうに見えていたが今ではすっかり慣れ親しんだものになり、それ程にわが祖国に帰還してからの日々は色濃く、その根源は「ここ」ベイカー街にあると言っても過言ではない。
正確には、この通り沿いに住む僕・の・友・人・が根源なのだが......今日もまた然り、その友人の急な呼び出しに応じるためにこの通りを訪れているわけである。
「あまり失望させないでくれたまえよワトソン君」 そう言いながら彼は自身の顔を左手で覆う。 その細く長い指の隙間から僕を小馬鹿にしている笑みが垣間見得るのだが、それを隠そうと手を顔に当てたのだろうか? だとしたら、おもいきり見えているのでまったく無意味だが。 この、やや失礼で容姿端麗な紳士の名前は 「シャーロック・ホームズ」。 ここベイカー街221Bに住む私立探偵で、僕の友人である。
「ええと、電報には火急だと書いてありましたが。なにかあったんですか?」と僕。
「火急だよ! このままでは俺は死んでしまう。
退屈すぎてね! 一大事だろう?」
「は、はあ.....」
「だが、君が来てくれたのならば幾分かは退屈が凌げるというものだ。そうだな、今日は【水死における窒息死と溺死の差異】について議論しようじゃないか。」
何故僕が彼の数少ない友人になれたのか。
一応僕は生きている人間だと前置きしておくが......それは彼が医学や化学といったものの勉強に特に意欲的だからである。 彼の職業病のようなもので、犯罪が発生した際に必要となりうる知識ーーそれを彼は「推理学」と名付けていたがーー
ふと、表の通りで馬車が止まった音がした。 ホームズさんも気がついたらしく、安楽椅子に座ったまま、外も見ずに「4輪馬車だね」と呟く。
足音がコツコツと階段を上がってきた。
「勝手に入ってきた時点で6択......足音は女性のものだ。この時点で4択......うちの暗い階段を慣れた足つきで登ってきている。2択まで絞れた。大家のハドソンさんではない。足の動く速さが老人のそれではないーー」
現れたのは、このおんぼろな建物には似つかわしくないほど上品なご令嬢がひとり。その大きな蒼い瞳を優しく細め、柔らかそうなハニーブロンドの髪ゆらしながら膝を曲げた。
「あら、ワトソン先生もいらしてたんですのね」 そう言って花が咲くような微笑みを向けられ、僕は思わず綻んでしまったが、ホームズさんはというと虫歯が痛むような顔をしていた。
メアリー・リーズベット嬢。 国の研究機関に務めているリーズベット伯爵の御息女で、 なんでも、幼い頃にホームズさんに助けられたのだとか。 それがきっかけで、メアリー嬢はホームズさんに会うために探偵となり、例の「踊る音符事件」、通称「3つの葬送曲事件」で再会を果たしたそうだ。
さて。 それでは役者も揃ったわけであるし、読者のみなさんもきっと痺れを切らしているだろから前置きはこの辺にして、さっそく事件のお話に移らせていただくことにする。
英国探偵「シャーロック・ホームズ」と 伯爵令嬢「メアリー・リーズベット」、 そして僕、「ジョン・H・ワトソン」 彼らの華麗なる事件簿を、僕がこうしてしたためることになる英国を揺るがしたあの事件を。
19世紀ロンドン
bottom of page